漫ろ歩き

小説のようなものを書きます

虹色の鹿

 

 

 胃の内容物全てをぶち撒けられるように吐いた。正確には、嘔吐いただけでそれに伴う筈の吐瀉物はそこに無かった。激しく上下する肩や顎を伝う汗は落ちても、固形物やら液体やらは私の喉から一向に姿を現さなかった。荒く息を吐くだけで動揺する脚とは裏腹に私の頭は冷静だった。暫くの間、暗がりでポツリポツリと床に落ちた水滴の数を数えていると後ろから声がする。

「だいぶ悪いのか?」

あぁ、と答える代わりに2回ほど頷く。後ろで棚を漁る音がして、私は先程より落ち着いた胃を擦りながら「上から2番目の引き出し。」と引き攣る喉で何とか口にした。

「これ?」

緑色の錠剤が2つ、私の眼前に差し出された。彼へ短く礼を告げ、水も含まず錠剤を飲み下す。隣に立った彼の手を握りながら一息吐くと、それだけで濁った視界が段々と色彩を取り戻す。大丈夫。まだ、人間の手だ。

 

 かかりつけの医者はあと2日3日ですっかり私の姿かたちは鹿に変わってしまうだろうと言っていた。このピンクの錠剤を毎日欠かさず飲んでくださいとも言っていた。私は言われた通り、食後30分を空けて小さなそれを2つ、4日前から飲み続けていた。

 その時は隣に居なかった彼に電話をしたのがつい昨日。他に関係を持っている女性も居たが、ぱっと思い浮かんだのは高校からの付き合いで腐れ縁の彼の顔だった。彼には癌だと言っておいた。彼はそれを聞くと疑う訳でも心配する訳でもなく、ただ「そうか。」とだけ返した。電話越しで正確な表情は分からなかったが、きっといつも通り不機嫌そうに眉を顰めて目を瞑っているのだろうと私は思った。彼のこの顔を私は好意的に捉えていた。学生の頃、お気に入りの本を読み終わった彼が同じ顔をしていたのを見た事があったからだ。

 握られていた手が離れ、私の背を摩る。私が弱い力でその手を払うとまた同じ様に手を握った。私の喉からは胃液の代わりに、嗚咽が出ていた。不思議と悲しくも苦しくもない。ただ胸につかえた何かが取れなくてもどかしい思いだった。大人しくなった筈の吐き気が込み上げてくるようだ。握られた手に少しだけ力を入れると同じ分だけ握り返された。

 彼の手が次第に汗ばんでくる。そんな時になって私はやっと彼に対して申し訳ない気持ちになった。私がそのままそう伝えると、彼は「気にするな。自分の体調だけ考えろ。」と言って、水を飲むかどうか聞いてきた。それを断り、私は彼の手を引っ張るようにしてソファへ座る。そして正面の壁に飾ってある、病院の帰りにリサイクルショップで買った鹿の頭部の剥製を眺めた。2人して無言だったが、彼と過ごす最後ならこんなものだろうと私の心は穏やかだった。カーテンの閉められていない窓からは西日が差して、埃がチラチラと光っている。

「角、綺麗だな。」

それだけ言って、彼の手が私の手から離れた。きっと彼の眉はいつも通り顰められ、目はぎゅっと瞑られたままなのだろうと私は思った。