漫ろ歩き

小説のようなものを書きます

それははじめてのことで

 

 

 友達は趣味で詩を書いていた。その日あった出来事、その日の空模様、道端に落ちていた鉛筆の色、グランドに忘れられた運動帽。日常の他愛ない出来事や物を詩にしたためては、私の席へやってきて見せてくれた。私は授業の合間に学習ノートを抱えて駆けてくる(私に読んでもらうまで誰にも見せたくないからだと前に言っていた)その友達が大好きで、それと同じくらい彼の書いた詩が好きだった。

  彼に切り抜かれた日常の1コマは不思議な色合いで私を虜にした。彼の詩は素朴で、鼻につかない表現が水のように浸透していく。液体状になったビー玉をそのまま紙の中へ閉じ込めたみたいに色彩豊かなのに、それはとても冷ややかで、それでいて雪の降り積る寒い日に人肌に触れたかのような確かな温もりがあった。

 

 彼の目にはどんな世界が映っているのだろう。私は何度も彼が同じ世界に生きているのか疑ったが、答えは明確であったのでその都度口には出さなかった。世界は私を驚かせた事など1度も無かったし、そんな世界に私はほとほと呆れ果てていた。

 母は事ある毎に「生きていて良かった」と私や父に投げ掛けていたが、父がそれに賛同した事など一度も無かったように思う。もしかすると私の知らない方法で父は母の意見に賛同していたのかもしれなかったが、子供の私から見れば、口を真横に引き結んで黙ったまま険しい顔をしていた父のその静かに通る声が「生きていて良かった」と脳内で復唱しているなどとはどうにも思えなかったのだった。

 

 不思議な事にそんな中でも彼がスポイトで掬い上げた私の生きる世界は、どこまでも綺麗な光を放っていた。大好きだった。彼の詩も、彼が見た世界も、彼の照れ臭そうに笑った時に出来る笑窪も、本が好きで、見知った知識を私に教えてくれる高揚感を湛えた瞳も、本当に大好きだった。

 私のこの気持ちを彼が恋や愛と呼ぶなら、そうだと肯定してもいいとさえ思っていた。逆に言えば、彼以外の誰にそう言われても否定するつもりでいた。

 

 中学へ進学し、私と彼とは異なった校舎へ通うようになった。元々、住所が正反対だった私達は放課後にどこかで一緒に遊ぶなんてことも無く、当然と言えば当然であった。幼心に寂しさを覚えた当時の私は母に理由を聞いたが、聞き慣れない「区画」という単語に胸中をモヤモヤさせるに留まった。もう二度とあの綺麗な世界を見れないのかと思うと残念でならなかったのだと思う。

 こうして私と彼との縁は、机上から鉛筆が転がり落ちるかのように呆気なく途切れてしまった。

 

 

 

 

 事故死だった。

 生前のうち「死んだ後は何も無いが有るのだ」なんて友人とふざけて言い合った私は、まさに今その解と対峙している。私は私の死体が救急車に乗せられたのを見届け、その場を去る。移動距離に制限がある訳でも無いらしい。手を握る。感触はしなかったが正しく思い描いた通りに動作をしているのが見えた。野次馬の喧騒も聞こえている。

 

「あ、声も出るのか」

 

 これでは生きているのと何ら変わりない。ただ、感覚だけが何もしなくなってしまった。物や人に触れる事も出来ない。触れようとしても触れた箇所から水のように溶け、私の体は見えなくなってしまう。世界がそっくり全てホログラムか何かになったかのような光景だ。私は今、確かにこの場に居るけれど、確実に居ない存在だった。

 元々、天国やら地獄やら高天原やらは私の頭では馴染みが無く想像のつかない世界で、漠然と「違う」と思っていた。このような信仰心の欠片も無い男が、神などの上位存在から迎えられるような事も無いだろうと結論付け、生前に向かう途中だった待ち合わせ場所へ急ぐ。私の答えのあと「死んでいても生きていても同じ事だよ」と述べた友人は既に待ち合わせの時間を過ぎていたのもあって、その場所で腕を組んで立っていた。今日は最近オープンしたと評判のカフェに男2人で赴く予定だ。

 

「お待たせ」

 

 私が片手を挙げると彼は大きな溜め息を吐いた。スマホを取り出し、緑のアイコンをタップする。両手でスマホを持ち直すと私の名前が表示された画面にメッセージを入力していった。

 

「遅いぞ」

「ごめんごめん。途中で事故に遭ってさ。車に轢かれたんだよ? 青いワゴン車」

「もう行くからな」

「だから、ごめんってば。奢るから許してくれよ」

「絶対1番高いの奢らす。覚えとけ」

「分かった」

 

 苦笑する私に、彼はもう一度だけ溜め息を吐くとスマホをズボンポケットに入れて歩き出す。道中は一言も話してくれなかった。それはそうだ。疑う余地も無い事実として、私は待ち合わせの時間に1時間も遅れてしまっているのだ。こちらに非があるとして真摯に受け止める。それに、無言が続いたくらいで気不味いとも思わない程度の時間を彼とは共に過ごしていた。

 

 件のカフェはそこそこ人が入っていた。並ぶ事なく奥の席へ案内され、手前の椅子席に私が座った。彼は早々にメニュー表から1番高いフルーツタルトとコーヒーのセットを見つけ、それを眺めていた。

 

「それにするのか?」

「やっぱ高いよなぁ…」

「気にするタマかよ」

 

 彼は「よし、」と続けると店員にケーキセットを2つ頼んだ。それから腕を組み、もう一度店員を呼ぶと禁煙かどうかを聞く。全席禁煙だと告げられた彼は、再び腕を組むとソファーに深く座り直した。右の人差し指をトントンと一定間隔で動かす様は、傍から見ても苛立ちを隠せていなかった。

 

「遅ぇな」

 

 私は曖昧に笑ってから暫くの間俯いていた。私が顔を上げても、カフェの入口を睨む彼と私の目は合わない。こんな事なら最後に言っておけば良かった。少しして、店員が水をひとつテーブルの上へ置く。

 

「やっぱり、同じではないよ」

 

 ポタポタと私の拳に落ちた涙が波紋となり、それは私の身体を徐々に揺らめかせ、やがて全体へと広がっていった。

 

 

修理の日です

 

 朝、いつもより早めの時間に目が覚める。太陽も私もまだ眠気眼で、部屋は薄暗い。カーテンを開けても開けなくても同じだろうと安易に想像出来た。手を伸ばし、スマホで時間を確認する。5時23分。尋常じゃない程の睡魔に襲われているのも納得の時間だ。そもそも私は夜型なのだ。昨晩も殆ど今日と言っていい時間にスマホをいじりながら気を失うようにして寝た筈であり、2時間も寝られていれば良い方だ。

 大きな欠伸をひとつしてから、ハッとして隣で規則正しい寝息を立てている彼を盗み見た。私の心配をよそに、彼は咀嚼するように口を動かしつつ、枕の位置の収まりを気にする素振りを見せると再び深い眠りに入ったようだった。眠りの浅い私とは対照的に、彼は一度眠るときっちり8時間は寝る体質だ。以前、ついつい羨ましいと口にしてしまった時は「その分燃費悪いから」と力の抜けた顔で笑っていた。

 今日は火曜日、燃えるゴミの回収日だ。昨日のうちにゴミは玄関へ纏めておいたし、ゴミステーションも幸いな事に部屋から近い。なんだか何もかもが上手く行き過ぎていて、私は手持ち無沙汰だった。せっせと用意した豪華なディナーを前にテーブルへついた途端、然程空腹でないと気が付いたかのような、そんな胃の重くなる気分だった。他にする事も無ければしようとも思わず、ただボンヤリとベッドに座っている。

 

 何となしに部屋を眺めていると正面に夏の間に壊れてそのまま放置していたエアコンを捉えた。ああそうだった、あれは一度修理に出さなければ。そういえば風呂の湯を抜いていなかった筈だ。洗濯物も1回分相当は溜まっている。シンク、は片した筈だ。途端に今日1日の予定が埋まっていき、私は布団を隣の彼に掛け直すとしっかりとした足取りで立ち上がる。まずは洗濯機を回してしまおう。それから、それから。彼の身動いだ音が、私のスリッパを履いた音で掻き消された。

カラスのような男

 

 

 昔から風呂が嫌いだったその友人は、決まって全身黒ずくめで待ち合わせにやって来た。春の麗らかな陽気に誘われ「博物館に行こう」と彼に連絡した日も、帽子からTシャツからズボンから全てを黒一色でコーディネートしていた。

「お日様暑くないか?」

「別に、暑くないけど。」

不思議そうに首を傾げた彼は代謝の悪いせいで汗を掻きにくいのだと結論付け、道をゆっくり進む。博物館の最寄りで停るバスはあと1時間も待たなければいけなかったからだ。歩いてしまった方が早いと、道中でこれから見る展示の話や、自分の近況、職場の面白い先輩の話を思い付く限り次々と話していく。するとあっという間に目的の建物が目の前にあった。

 モダンアートをコンセプトに最近建てられたその博物館は、数本の丸みを帯びたアーチで私達を出迎えてくれる。私が「伏見稲荷大社みたいだ。」と零すと、彼は

「鳥居のアレを言ってるなら、千本鳥居って言うんだよ。あそこは1万はあるそうだから、コレじゃあ遠く及ばないね。」

と続けた。彼は話し出すと長い。彼にもその自覚があり、私達は決まって私が喋って彼が相槌を打つという風に会話を進めていた。

 バツが悪そうな顔をした彼の視線を土産物コーナーを指差して避ける。私はその時展示されている物のコラボグッズをよく手に取ったが、彼はその博物館の目玉で常時置いてある物のキーホルダーをよく見ていた。

「最初に土産コーナーがあるの、面白いな。」

「一周して戻ってくる構造なんじゃないかな。土地もそう広くないし、ほら。あそこからこっちに向かってくる人はみんなパンフレットを持ってるよ。」

彼の指差した方へ振り返れば、なるほど確かに通路の奥に順路を示しているであろう矢印がこちらを指していた。私が「探偵みたいだな。」と笑うと彼は「みたい、じゃなくて本当にそうなんだけど。」と眉を下げた。

 今日日探偵なぞ流行らないだろうという彼の両親の思惑に反して、彼の懐はそこそこ潤っているようだった。依頼主に高い店で飯代を奢ってもらっていると聞いた時は素直に羨ましいと思ったものだ。私自身、上司から奢られる事はあっても、それは未来の私が後輩に奢るためのツケのようなものだと思うとどうも義務的に感じてしまうのだった。

 それから「土産ばかり気にしていても仕方が無い。」と彼が言い出し、私もそれに頷く。受付で見学カードとパンフレットを貰い受け、受付嬢の指した方へ歩き出した。オフホワイトのリノリウムの道を進み、展示についてあれこれと言い合った。その途中でいつ話し出したっていい、くだらない話もした。むしろ比率としてはくだらない話の方が多かった。すぐにまた土産物コーナーのあったフロアへ着く。戻ってもう一巡しようかとも思ったが、彼は展示物よりも外のアーチが気にかかるようだった。平日の昼間なおかげで人は疎らだ。彼と私が道の真ん中で立ち止まっていても誰にも咎められない。暫く外を眺めていた彼は、私に断りを入れるとトイレへ向かっていった。私はこれと言って他に興味を引くものも無く、近くにあったベンチへ座る。何となしに外を眺めれば、視界の端でアーチが日に当たって微かに光っているのが見えた。

 

「その先輩の事、好きなんだね。」

展示を見ていた私に彼はそう言った。私はそうだ、ともそうじゃない、とも言う前に「しまった。」と思っていた。人前であの先輩の話をすると、どうもこう結論付けられる事が大半であったからだ。確かにその先輩に対して私は好意的だった。特段否定する事も無いので「あぁ、まあそんな感じだ。」と返す。すると彼は顎に手を当て、如何にも考えていますといったポーズを取った。

「珍しいね。君のお眼鏡にかなう女性か。僕も一度会ってみたいな。どうだろう、今度3人で食事でも。」

「俺はいいけど、」

と前置きし、彼の勘違いを正す。

「先輩は男だぞ。」

彼は鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔で私を見る。続けて先輩の年齢と風貌も伝え、それでも席を共にしたいかと聞いたが、彼は変わらず「会ってみたいな。」と少し緊張の解けた口角を上げていた。私は幾度目かの忠告を彼に告げる。

「でも、黒尽くめは止めてくれよ。」

「それは聞けない願いだな。目上の人に会うんだから。」

 

 

虹色の鹿

 

 

 胃の内容物全てをぶち撒けられるように吐いた。正確には、嘔吐いただけでそれに伴う筈の吐瀉物はそこに無かった。激しく上下する肩や顎を伝う汗は落ちても、固形物やら液体やらは私の喉から一向に姿を現さなかった。荒く息を吐くだけで動揺する脚とは裏腹に私の頭は冷静だった。暫くの間、暗がりでポツリポツリと床に落ちた水滴の数を数えていると後ろから声がする。

「だいぶ悪いのか?」

あぁ、と答える代わりに2回ほど頷く。後ろで棚を漁る音がして、私は先程より落ち着いた胃を擦りながら「上から2番目の引き出し。」と引き攣る喉で何とか口にした。

「これ?」

緑色の錠剤が2つ、私の眼前に差し出された。彼へ短く礼を告げ、水も含まず錠剤を飲み下す。隣に立った彼の手を握りながら一息吐くと、それだけで濁った視界が段々と色彩を取り戻す。大丈夫。まだ、人間の手だ。

 

 かかりつけの医者はあと2日3日ですっかり私の姿かたちは鹿に変わってしまうだろうと言っていた。このピンクの錠剤を毎日欠かさず飲んでくださいとも言っていた。私は言われた通り、食後30分を空けて小さなそれを2つ、4日前から飲み続けていた。

 その時は隣に居なかった彼に電話をしたのがつい昨日。他に関係を持っている女性も居たが、ぱっと思い浮かんだのは高校からの付き合いで腐れ縁の彼の顔だった。彼には癌だと言っておいた。彼はそれを聞くと疑う訳でも心配する訳でもなく、ただ「そうか。」とだけ返した。電話越しで正確な表情は分からなかったが、きっといつも通り不機嫌そうに眉を顰めて目を瞑っているのだろうと私は思った。彼のこの顔を私は好意的に捉えていた。学生の頃、お気に入りの本を読み終わった彼が同じ顔をしていたのを見た事があったからだ。

 握られていた手が離れ、私の背を摩る。私が弱い力でその手を払うとまた同じ様に手を握った。私の喉からは胃液の代わりに、嗚咽が出ていた。不思議と悲しくも苦しくもない。ただ胸につかえた何かが取れなくてもどかしい思いだった。大人しくなった筈の吐き気が込み上げてくるようだ。握られた手に少しだけ力を入れると同じ分だけ握り返された。

 彼の手が次第に汗ばんでくる。そんな時になって私はやっと彼に対して申し訳ない気持ちになった。私がそのままそう伝えると、彼は「気にするな。自分の体調だけ考えろ。」と言って、水を飲むかどうか聞いてきた。それを断り、私は彼の手を引っ張るようにしてソファへ座る。そして正面の壁に飾ってある、病院の帰りにリサイクルショップで買った鹿の頭部の剥製を眺めた。2人して無言だったが、彼と過ごす最後ならこんなものだろうと私の心は穏やかだった。カーテンの閉められていない窓からは西日が差して、埃がチラチラと光っている。

「角、綺麗だな。」

それだけ言って、彼の手が私の手から離れた。きっと彼の眉はいつも通り顰められ、目はぎゅっと瞑られたままなのだろうと私は思った。